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No.72
2016/11/17 (Thu)

クラーナハ展


2016年10/15〜2017年1/15 西洋美術館(東京)


2017年1/28〜4/16    国立国際美術館(大阪)


http://www.tbs.co.jp/vienna2016/(特設サイト)




クラーナハといえば、ぬめるような黒背景、そこに浮かび上がる蛇のように肢体をくねらせた蠱惑的な女の絵だ。

その闇色、ぬめる黒はほぼ全ての作品にひそみ、デフォルメされた中世的な表現の身体と相まって、まるで他人の快楽妄想の世界を覗いているような気分になる。
しかしなぜかその印象は隠微ではなく、明朗さすら感じる。





今回の展示は、クラーナハの持つ蠱惑的なイメージを中心にして、同時代、その後の画家、舞踏への影響にまで言及した意欲的な展示だった。

おすすめである。





以降各章で気になった感想はこの下の広告の更に下 つづきを読む をクリックすると出てきます。
そこそこ長い。








先にクラーナハの背景を少し。

ルカス・クラーナハ(父)は1500年代前半、ラファエロ等と同時代にドイツで活躍した画家。の初代。のちに工房は同名の息子ルカス・クラーナハに引き継がれる。
ルネサンスの画家だが、当時最先端だったイタリアで意識された遠近法や正確な身体比率表現には向かわず、前時代的なデフォルメされた表現になっている。簡単にいうとデッサン狂いで肩は細く、体はにょろりとして、背景は平板である。
しかし顔の筆致や質感表現はリアルで、そのアンバランスさがめまいにも似た独特な幻惑を引き起こす。

そしてその蠱惑的な、しかし明朗な裸体表現は、おそらく宗教改革の狭間にあって初めて表現可能だったといえる。
これまであったカトリックの表向きの厳格さとは裏腹な、免罪符という金で死後の安寧を買えるシステム・結婚(性行)を禁止されているのに堕落した教会内部。
これらに反発して、祈りを主軸に性欲を完全否定せず聖職者も妻帯許可をする、そういう宗教改革が進んだドイツで、蠱惑的なものを生活から忌諱する理由がなくなった。



そこでクラーナハの裸体ピンナップの登場である。



これまで乳房を見せてはいてもギリシャ神話の神であったり、人間のエロスの全面推しは憚られていたのが、クラーナハは誘惑の視線と肢体を惜しげなく晒す女を描いている。そしてそれは工房で量産された。

今回の展示はこの歴史背景を受けて構成されている。(と思う)
ちょう簡単説明おわり。








クラーナハの絵の話に戻る。
章ごとに気になった絵をいくつかずつ。



1・宮廷画家としてのクラーナハ  蛇の紋章と共に

ここで最も私の目を引いたのは「聖カタリナの殉教」
カタリナが車輪の刑にされようとした瞬間、火山が噴火し、その炎が車輪を直撃して刑が執行されるのを阻止した、という奇跡の瞬間の絵。大スペクタクルである。カタリナには救いのシーンだが、見ている側からは阿鼻叫喚である。
カタリナの衣装は美しい輝きなのに、背景には粘つく黒、デフォルメのキツイ体で混乱する兵士や馬たち。このデフォルメっぷりでこの絵の悪夢感が増しているように思う。そしてそれが画面にうねるようなダイナミックな動きをつけている。
CGで微妙に動かしたらさぞかし吐き気がすることだろう(褒めてる)。
ちなみにこのシーンでは異教徒4000人が死に、カタリナはここで刑を逃れたものの、後に斬首される。
カタリナが処刑にいたる問答を調べてみて欲しい、そんなに煽ってどうするの…という気持ちでいっぱいになること請け合い。


あと、マクシミリアン一世の顎が長い。長い。とても。

2・版画家としてのクラーナハ  グラフィズムの表現

ここは木版画、それと比較のためのデューラーの銅版画がある。
牧歌的な気配の聖家族像、小品が並ぶが、クラーナハ独特のうねりがそのまま反映された版画なのが面白い。並ぶとテンポすら感じた。
特にアントニウスの誘惑は、同タイトルを描いた数多の画家の中、まず筆頭の代表作例として挙げられる画。愛嬌すらある異形の悪魔と、空中浮揚中のファンタスティックな図は見ていて飽きない。肝心のアントニウスが悪魔に埋まってどこだかわからないとこも見所w







3・裸体表現の系譜  時を超えるアンビヴァレンス


ここではクラーナハとデューラー、そしてピカソ、現代美術作家の作品が並んでいる。
デューラーの質実剛健、精妙精緻、正確無比、そしてリアルな比率の漬物石のごとき重い裸体。
クラーナハのしなる、ゆれる、たゆたうような、リアルではない関節とフォルムの手足と腰を持つ流麗な裸体。
色香とは、なにかがズレたところからのみ発せられるのだろうかと思える、比較を余儀なくされる展示は印象的だった。
絵として凄い力量!と言えるのは文句なくデューラーなのだが、エロティックという妄想の余地があるのは圧倒的にクラーナハ。
そして画面の中のしなった身体と木々のフォルムのせいで、いまにも蠢きそうな印象のクラーナハ。デューラーの紙なのに重そうにみえる印象と対をなしていて、ついにやにやしてしまった。この並びほんと大好き。万歳。(注・デューラー大好きです)


ピカソはクラーナハの絵をキュビズム変換したモノクロの画だった。キュビズムわからないのですが、ここにエロスを感じることができるようになるのは、まだまだ未来だな、と思いました(小並感)。





あと「ルクレティアの自害」がいくつか並んでいた。
貞淑の権化として描かれる女性で、暴行されたあとその暴行犯(王子)を殺してくれと父と夫(とその友人たち)に告白し、その目の前で胸をひと突きにして自害したという場面である(のちにこれがローマの共和制への動きに発展する。なので実は宗教的であり政治的な主題でもある)。

クラーナハはその貞淑の権化を脱がせた。
そしてその乳房に剣を突きつけ今にも世を儚もうとする悲嘆の表情、それを憂いのある恍惚といっていい表情で描いている。
柔らかい稜線で肉体が描かれる中、画面の下から切り裂くように直線の剣先が刺しこまれ、乳房に到達している。その直線は乳房から恍惚の顔へ視線が誘導されるようにしむけられている。
仕掛けがエロすぎるだろうクラーナハ!
こういうところで人気が出たのだろうと思う、今見てもあざといほどの構図なので当時は相当センセーショナルだったのではあるまいか。





この項ではインスタレーションとして、現代の中国の画家(模倣職人というのだろうか)数十人に、「正義の寓意」という裸体に薄衣を纏い天秤と剣をもつ女神を、6時間という制限をつけて模写させ、それを壁一面、天井から床近くまでびっしりと並べて展示している部屋があった。
一枚の絵が、工房で量産されるさまを可視化しようとする面白い試みだった。
そしてこの模写のレベルかピンからキリまであって、それを見比べるのも面白かった。クラーナハの絵を観る、という目的からはズレていく感覚も含めて面白い。

 

5・誘惑する絵 「 女のちから」というテーマ系

冒頭に書いたクラーナハの印象、それがこの項であり、展覧会広告用に採用されたあのユディトが見られる部屋である。

まず「不似合いなカップル」という当時クラーナハが多くこなした主題の絵がいくつか並んでいる。老人の男と若い女がぺっとりとくっつき、何事か囁きあっているような絵。まさに誘惑真っ最中だが、女が誘惑するばかりでなく、宝石で老人が誘惑している様も見えてなかなか生臭い。





あと一見なんてことない情景の絵だが、物語を知るとえもいわない気持ちになる「ロトとその娘たち」。
概略を書こうと思ったが、その物語のルーツが非常に複雑なため参考URLhttp://ch-gender.jp/wp/?page_id=6128を置いておく。
美術館のキャプションでは「ソドムの滅亡から逃げ出したロト家族、妻は振り返ったことで塩の柱にされ、ロトと娘たちは洞窟に逃げ込んだが、世界は滅亡し自分たちだけになったと思い込んだ娘たちは、父であるロトを誘惑する」となっている。そしてこのあと子供を産み民族の祖となるわけだけど、この状況を「娘たちの誘惑」としてエロスの絵にし続ける西洋絵画の闇を感じるのだった。





さてユディトである。
冷徹とも思える冴えた瞳を鑑賞者である我々に注ぎ、ゆったりと微笑む薄い唇、優美なフォルムの髪と身体、それを包む豪奢な装束、そして切り口も生々しい青ざめた男の生首。

これまでの絵は誘惑されているのは絵の中の人々だったが、ここにきてその対象が鑑賞者になっていく。
冴えた美貌の女、生首を抱えた女にじっと見つめられる。なかなか倒錯的な感覚になる。
余談だが、単眼鏡で彼女の瞳を覗くと、黒い瞳孔からヘーゼルの色がフレアのように薄浅葱の虹彩へ広がっていく様が見える。猫の目のような怪しい美しさと恐ろしさにハッとした。肉眼でこれを確認するのは難しいので単眼鏡を持っている方はぜひ見て欲しい。こういう発見は実物の絵を見る楽しさの一つかと思う。



他に、薄衣ともいえぬ、ほぼ食品用ラップのような透明のベールを纏う裸体の絵。
この透明のベールが股間の上を覆っていることで、否が応でもその股間に視線が注がれるようになっていて、クラーナハのエロテロリストぶりが楽しめるかと思う。ほんとにやらしいわクラーナハ…(褒めてる)



そしてそのユディトをセルフパロディする森村泰昌氏の写真…いや、絵。
天井に届くような巨大な作品いっぱいに、森村氏扮するユディト。その手にある生首も森村氏。
とてつもない迫力で、正直、絵の正面に立っていたくない(笑)。
そして実物のユディトの絵で疑問だった、不思議な形の手袋が、実にうまい形で再現されている。
ぜひとも、実物ユディトの手袋を観察し、森村氏の再現をみてほしい。上手いwwwと思うこと請け合い。



6宗教改革の「顔」たち ルターを超えて

歴史の教科書に出てくるあのルター。緻密に描かれた顔と、簡略化された首の下の体の輪郭。なので顔の印象がとても強い。これも効果を狙っているのだろうか。
夫婦を二双一組として描いた絵がいくつか。これも宗教改革による思想が形になったといえるのだろう。
この夫婦像の背景は単色で塗りつぶされているものばかりだったが、その単色が自然色でなく、妙に鮮やかで浮いて見えるほどだった。なぜそういう色を使ったのか理由が知りたい…。


ラストに鎮座する「子供たちを祝福するキリスト」複数人描かれているのだが、ここに現れる不思議なテンポ感は笑顔になる。











と、さすがに長すぎるので最後は駆け足でかきました。
クラーナハはあのデッサンゆえの魔術的なあやしさ、裸体への視線動線のうまさゆえに隠微さが連想されるが、全体として妙に明朗というか清明というか、陰湿さを感じないのが面白いところだと思った。
いままで図版と数点の原画しかみた事がなかったが、その時は隠微さばかり感じていたのにこうやって現物が一堂に集まると快活さすら感じる。
もともと爬虫類的な美しさが好きだと思っていたのだが、底の部分にあるエネルギッシュな明るさのようなものが作用して、あの黒い背景も陰湿さを帯びないのかもしれないと思った。ぬめってるけど(笑)。





今回の展示はあまりクラーナハに馴染みがなかった人にも楽しめるように構成されてると思うので、西洋絵画にちらっとでも興味があるようでしたら、ぜひおすすめしたい。

絵の意味がわかんないなーとか、これなんなのかなーと思ったら、会場内のベンチに置いてある図版の該当絵画の解説を読むと、そういうもやもやが晴れたり描かれた歴史背景などもわかって倍楽しめると思う。



さらに余談だが、私の子供のころはクラーナハではなくクラナッハと記述されていたので、今回発音しずらくて困った(笑)。











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