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No.17
2008/11/22 (Sat)

観て損はない、というか絵に興味があるならぜひ観て欲しいと思ったワイエス展。
絵を描く、という行動がどういうものなのか、ひとつの形をみせてくれている。
絵を描く人は『絶対』観ておいた方がいい。


アンドリュー・ワイエス展

2008年11月8日(土)〜12月23日(火・祝)
10:00-19:00(金、土曜日は21:00まで 入館は閉館の30分前まで)
会  場 Bunkamura ザ・ミュージアム
休 館 日 展覧会開催期間中無休
観 覧 料 一般 1400円(前売 1200円)

《巡回展》
・愛知県美術館   2009年 1/4(日)〜3/ 8(日)
・福島県立美術館  2009年3/17(火)〜5/10(日)


http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/08_wyeth/introduction.html






現代アメリカ絵画の筆頭ともいえるワイエス。
齢91才にしていまだ健在であり、創作活動は衰える事がない。
彼の視線には若い頃から透徹したモノを感じる。


ほとんど同じ場所、同じ人物達とすごしているワイエス。
それゆえに、視線は詳細に風景をとらえる。
それを執拗に描写していくのは、対象に並々ならぬ愛がなければ成し遂げられない。
どれほど荒涼とした風景であろうとも、その先になにかが息づいているように見えるのは、世界が内包している奥深さを捉えられるからだと思う。
それが見えるからこそ、鑑賞者に感銘を与えるのだ。



久しぶりに、観賞していて涙がでそうだった。
今まで古典ばかり観てきたが、もっと昔にきちんとワイエスを観ていたら、絵に対する方向性も変っていたかも知れないとすら思った。
逆に、今だからこそ感じる事ができたのかもしれないが。






この展示では完成図の数はそう多くはないが、完成にいたるまでのデッサン、習作が数多く展示されている。
習作から完成図へ至るまでの試行錯誤の様子が、存在へ対する思索を感じさせる。


ワイエスの、人物の居ない絵にそれが顕著な気がする。
何度も繰り替えし描かれたオルソン家のさまざまな場所、さまざまな器具たち。
それらの絵には人物は描かれていないが、使い古された、いままさに使っている器具や家を描くことによって、そこで生活している(していた)人間の存在を濃厚に感じる。

現に、計量される卵や桶に入ったブルーベリー、ヘルメットの中の松ぼっくり、そうした物たちだけがかかれた完成図があるのだが、デッサンや習作では人物が描かれているのだ。
絵画を成立させる過程で、それら道具を使っている人物達は画面から退き、持ち主の生活を現すかのように道具だけが存在する世界へと変化していった。



そして人物を描く時には、その人物の滅びまでを描くつもりでいるようにも感じる。




そんな中、印象に残ったもの。


オルソンハウスの台所を描いた「煮炊き用ストーブ」。
オルソン家の住人、老いたクリスティーナの後ろ姿が、画面の左側に見切れて描かれている。
この絵の主体は中央に置かれた使い込まれた薪ストーブのようでもあり、花々が置かれた窓からの日を受ける椅子のようでもある。
しかしそれら器具にある生活の痕跡が、クリスティーナの人生自体を刻んでいるようにも見える。
画面の端でドアの外を向き光を浴びたクリスティーナの、老いた、しかししっかりとした肩とそれにかかるザンバラな髪の毛に彼女の素朴な生きざまが見える。
その背後にストーブと椅子バケツやつるし紐や朴訥に置かれた花々は、ここで彼女が生きて齢を重ね、そしてここで朽ちていく生活そのものが凝縮されているようにみえる。

こうした人生の現し方があるのだという事が、古典ばかり観ている私にとっては衝撃だった。


そして同じクリスティーナを描いた「続き部屋」。
これはクリスティーナの余命がいくばくもない事を知って描かれたものだ。
物置きのようになっている部屋から続き部屋になっている台所のクリスティーナを描いた画。
遠近のついた構図で、扉の奥に居る後ろ姿のクリスティーナに気付かれないよう見つめているような構図だ。
コンセプトとしては「煮炊き用ストーブ」と同様のものだが、これの鉛筆での習作が面白かった。
描かれているものは同じなのだが、その画面の切り取り方や影の入り方が違うのだ。
どのような心理で構成のしなおしがされたのかはわからないが、習作にくらべ完成作では器具とクリスティーナの距離感が近しくみえる。


倒された丸太の上に置かれた義手が淡々と光を浴びる「のこぎりを引く音」。
丸太の奥にみえる木々は鬱蒼と暗い。
フック型の義手は忘れられたように置かれている。
非常に静的な画だが、なぜか鮮烈な印象を持った。
なぜこうも印象が強いのか、解説を読んで腑に落ちる。
解説によると、少年期にビルという黒人の友人が、鉄道事故で片腕を無くし先端が鉤状になった義手を使っていた。ビルはその鉤爪でおどしたり、食事して食べ物をつけっぱなしにしていたり、ことあるごとにそこらに置きっぱなしにしていたりした。
ワイエスはその義手を軸にビルの肖像画を描いたが、挿し絵画家をしていた父にとがめられる。
ワイエスにとって義手はビルそのものだったが、父には美しく無い、描写してはならないものだった。
その出来事があって後、製材所で手を失って落ち込んでいる青年が、丸太の上にビルと同型の義手を置いた。
その時、ワイエスの中で少年期の思い出と、今目の前にある情景が結びついた。
それを描写したものだそうだ。
妙に印象に残るのは、ワイエス自身が鮮烈に印象づいたことをそのまま紙に表わした故なのかもしれない。


「雪まじりの風」
荒涼とした草原に霜が道筋のように凍てつき、空は鈍色だがほのかに光を内包している、実に寒そうな風景。
習作では木々が何本か見え、霜の筋もはっきりとしていたのだが、完成作ではその木々はなくなり、霜の筋はかすれ大地全体を凍てつかせている。
習作を重ねる程、木々などの生きる気配がなくなっていき、対象はおそろしくシンプルになっていく。
それゆえに荒涼度はあがっているハズなのに、なぜか生きる気配がするのがこの画の不思議。
凍てつく冬が過ぎたあと、ここに命が息吹くことを予期させるからだろうか。



ワイエスの絵は、描かない事によって本質の存在感を感じ取らせる。
思慮深くなければこの真似はできないと思う。




そうしたことを表現するためのワイエスの技術は実に多彩だった。
細部までこまかく描かれた鉛筆画、あらゆる技法を使った水彩画とテンペラ画。
その表現でこの質感がうまれるのか!と思う事しきり。
この強いハイライトは水彩でどうやって…と思って近付いてみたら削り取っていたり。しかもかなり思いきり良く。
鉛筆画のスケッチでは、ためらい線が一切なかった。
これは思った形をそのまま写し取れた、ということだ。
表現したいことがあり、そのためにここまで技術を研鑽させてきたのだと思う。
ワイエスの対象への情熱をそんな部分でも感じる。




技術面で血の気が引き、構成力に心酔し、あらわれた精神性に魂が震える、そんな展示だった。
画の展示の他に、ワイエスの画の源たる家の数々を紹介したビデオと、今年8月に行われたワイエス自身へのインタビュービデオが流れていて、これも必見。
特にインタビューは、ワイエスの真摯さを感じます。
91才になっても、感じた事はすぐに描く!それが大事だと言い切れる人生は絵書きとしてうらやましい。
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